遺伝カウンセラーが勇気をもらえる動画 その2
前回の記事に続いての投稿です。
今回は、NSGC(アメリカ遺伝カウンセラー協会)40周年の記念講演の動画のうち、「遺伝カウンセリングの専門性の40年の歩み」という題の動画を紹介します。
これまた、先駆者たちの勇気が伝わってくるメッセージでした。
遺伝カウンセラー発祥の地であるアメリカで、どのように“遺伝カウンセラー”が生まれたのか、初めて知る機会となりました。
訳の精度については、毎度ながら、大目に見てください。
(お話しされている方の名前が掲載されていませんでした。もし見つけたら追記します)
→2020/1/17追記:Wendy Uhlmannさんという方でした。
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NSGC40周年おめでとうございます!
私自身、遺伝カウンセラーであることをとても誇りに思います。
(会場:拍手)
今から私たちのこれまでについてお話しします。
私は、昔に行われた遺伝カウンセラーの現状調査で、当時どのくらい給与があったかを照合できる貴重な5%のうちの1人です。
(会場:笑)
◆◆◆
私は、遺伝カウンセラーとして現場に出始めた世代で、「遺伝カウンセラーって何する人?」という質問をよく受けました。
おそらく皆さんも聞かれることがあると思いますが、しょっちゅうではないと思います。
私たちは一貫して「遺伝カウンセラー」と呼ばれていたわけではありません。
1984年当時、23%の人はまだ「genetic associate」という名称を使っていました。
遺伝を専門とする医師(以降、臨床遺伝専門医と記載)は自分たちのことを遺伝カウンセラーだと考えていましたし、
遺伝カウンセリングの修士課程を卒業した人達の名称は「genetic associates」にするべきだと話していました。
サラ・ローレンス大学の遺伝カウンセリング課程の初期の責任者であったJoan Marks先生によると、
医療界には実力のあるリーダーがたくさんいたけれども、カウンセラーのトレーニングを受けるのにもっとも適している者としては、成熟した女性、さらに、子育てしたことのある女性であるべきと言われていたそうです。
当時は、医師ではないカウンセラーがさまざまな(職務責任上の)制限を理解していると信用してもらえるだろうか?と真剣に疑う声がありましたし、
そもそも遺伝性疾患の感情的な要素に対処することは必要なのか、もしくは建設的なのか?という開かれた議論もありました。
しかし、これら全ては明確に否定されました。
◆◆◆
臨床的な技能を身につけるのに、当初は何を参考にしていたでしょうか?
私たちが現場に出始めた頃は、コンピュータは無かった、もしくは、使われ始めた頃で、ファックスも携帯電話もインターネットもありませんでした。ですので、症例の準備に使ったものと言えば本でした。
(会場:笑)
症例の準備をする時は図書館まで歩いて行きました。行きも帰りも雪が降る中ですよ。
(会場:笑)
専門誌を探すのにはカード目録を使っていましたね。
一緒に働く医師のため、患者さんのために、遺伝カウンセラーの役割を明確にしていきました。
始めのころは、家族歴をとったり家系図を描くのに、このプラスチックの丸と四角の穴があいたテンプレートを使っていて、どこでもこれを持ち歩いていました。
(会場:笑)
面談では、遺伝に関する問題や心理的・社会的な問題に対するカウンセリングを行いました。時間は1時間かそれ以上で、遺伝子検査に関しては、ほとんど「実施していない」と答えざるを得ませんでした。保険の問題を気にする必要がなかったことは良かった点でしたけどね。
(会場:笑)
遺伝子検査施設に関して言うと、当時オーダーされていた検査のほとんどは染色体分析で、1990年代には単一遺伝子の検査が広く行われるようになりました。
遺伝子検査を出すときは、信頼できる解析機関を探すのに、論文の著者に連絡してお願いしたりしました。
1991年にNSGCは遺伝子検査施設のリストを公開し、その資料は重宝されました。
当時、遺伝カウンセラーは臨床遺伝専門医と働くのが一般的で、小児科か周産期領域のクリニックで働く人がほとんどでした。
遺伝カウンセラーは自律的な支援を行う人とはみられていなかったわけです。
私は遺伝カウンセラーが持つ知識、価値を行動で示し、もっと多くの役割を任せてもらえるように頼みました。
冗談抜きで、50%ルールというものを決めていたんです。もし医師が面談の50%以上話したら、私は文書を一切書かないと。
何度も何度もこれについて説明する必要がありましたが、私の役割は次第と拡大していきました。同時に書かなきゃいけない書類も増えたんですけどね。
(会場:笑)
◆◆◆
NSGCは遺伝カウンセラーが集える場を提供し、専門性の発展を加速させてくれます。
会議や遺伝カウンセラー同士のネットワーク、学会や専門誌を通じて、お互いのうまく行った事例や困った事例を共有したり、他の遺伝カウンセラーが何をしているのかを学び合うことができます。
また、新しい役割や、腫瘍の遺伝学のような新しい領域への挑戦していくことのきっかけとなります。
さきほどAudrey Heimler先生から話があったように、どのようにNSGCが始まったかについて、彼女のjournal of genetic counselingの論文をぜひ呼んでください。きっと勇気づけられると思います。
我が国の遺伝カウンセラーの専門集団を作るのに、サラ・ローレンス大学やそこで学んだ方々は多大なリーダーシップを発揮されました。
そのような団体を作るのかどうか、団体の名称は専門性や会員資格を定義する名前とするのかどうか、白熱した議論が行われました。
そして、1979年にNSGCは歩み始めました。
当時の会員数は233名で、会費はたった20ドルでした。
学生の人数は5名、また、NSGCのニュースレターに掲載された求人情報は4件だけでした。
1980年には、初めての遺伝カウンセラーの現状調査が行われました。
新卒者の初任給の中央値は$16,000、5年経験者は$18,700でした。
翌年1981年には、NSGCの初めての集会がサンディエゴで行われました。参加者は182名でした。
6年後、私がミシガン大学の2年生だった時に、SIG (関心のあるテーマについて話し合う自発的なグループ)の会議に初めて参加しました。ちなみにミシガン大学もちょうどその時40周年だったんです。
Go blue!(ミシガン大学の応援フレーズ)
(会場:拍手)
そこで、私のクラスのみんなが参加して、一同で話し合ったんですよ。
私を入れて2人だったんですけどね。
(会場:笑)
NSGCの集会は、1985年までMarch of Dimes(病児支援を行うボランティア団体)と一緒に開催され、1999年まではアメリカ人類遺伝学会と同時に行われました。
両方に参加しようと思ったら丸1週間かかったので、公衆電話には家族や仕事先に連絡する人の長い列ができていました。
参加者は同じ場所に集まっていたので、別に約束なんてしなくても会いたい人と話すことができました。
もちろんこんな大きな会場ではなかったですが、ホテルの小さな会議室にみんな集まって、泊まるホテルも同じでした。
企業展示ほとんどなくて、ダンボールの看板が立ってるくらいでした。参加者は様々な遺伝の問題に使えるようなパンフレットを手に入れるために、なるべく早く展示企業に連絡をしていました。病院の予算は限られていたので、パンフレットはコピーして患者さんに渡していました。それだけが患者さんに提供できるものだったのです。
その後、NSGCの学会誌や資料が作成され始めましたが、当初はボランティアでするしかありませんでした。
1992年よりNSGCの専門誌であるJournal of Genetic counselingの出版が始りました。これにより遺伝カウンセリングの認知が進み、より発信力を付けていきました。
1997年には会員へのメール配信が始まりました。テクノロジーがどんどん進んでしまうので、時々、会員全員に向けて個人的なメッセージを送ってしまったこともありましたね。
(会場:笑)
そして20年前、私はNSGCの代表に就きました。
今でもそうですが、当時も遺伝学的検査は重要課題でした。
クリントン大統領が連邦議会の場で、遺伝的な差別を禁止する大統領令の案を出した時、私はNSGCの代表者であることを光栄に思ったことを覚えています。
あとは、ホワイトハウスで行われたヒトゲノム計画の発表セレモニーの時もです。
NSGCの代表に就いて、大統領のいる場所で「あなたは遺伝・・・何でしたっけ?」という質問にも答えなきゃいけない日がくるなんて想像もできませんでした。
◆◆◆
さて、制度委員会の話をしましょう。
(会場:笑)
アメリカ遺伝カウンセリング制度委員会(the American Board of genetic counseling) は1993年に、臨床遺伝専門医と遺伝カウンセラーが同じ試験を受ける体制をつくるのに設立されました。
遺伝カウンセラーは、遺伝専門医と並んで席につきました。それも、自分が勉強した章を執筆していたり、この道の大家のような遺伝専門医と一緒にです。
制度委員会が開催される会場まではるばる行って、シャープペンとHB鉛筆で試験を受けました。
委員会は3年毎に6月に開催され、採点結果は発表されるのは8月でした。合格者のリストはアメリカ人類遺伝学会の専門誌(American Journal of human genetics)で公開されましたので、みんなそれに載るべく頑張っていたわけです。
(会場:笑)
遺伝カウンセラーの就職活動と言えば、養成課程の責任者やNSGCの委員会から仕事を紹介してもらっていました。つまり、仕事はほとんどなかったということです。ですので、みんな応募書類を自分が住みたい地域にある全ての遺伝クリニックに送っていましたね。
私はミシガン大学の在学中、2回の夏の実習の間に結婚し、1987年に卒業しました。
夫と一緒に暮らし続けるために、ミシガンでの仕事を探すのが良いだろうと考えたのですが、ミシガンには遺伝カウンセラーの仕事はありませんでした。ですので、私はかつて勤務していた細胞遺伝学の研究室で、大学院での染色体分析を行いながら仕事を探すことにしました。
4ヶ月後、出生前に関わる仕事が90マイル離れたところで見つかり、アナーバー(ミシガン州南東部の都市)からデトロイトまで毎日通いました。
当時卒業した遺伝カウンセラーたちはみんなそうでしたが、遺伝カウンセラーとして働ける仕事が見つかったことに、ただただ喜んでいたし、ありがたく思っていました。
あれから32年たって今、私は遺伝カウンセラーの現場調査によると、NSGCの始めの方の世代となりました。そしてNSGCは遺伝カウンセラーの専門性の拠り所、仲間が集える場所となりました。
こうして、これまでの歩みについて話していて、今ここにいれることを嬉しく思いますし、専門職としての遺伝カウンセラーの素晴らしい未来を楽しみにしています!
ありがとうございました。
(会場:拍手)
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みなさんはどこが印象的でしたか?
私は50%ルールのところです。この話、自分が学生の頃に知っていたらどれほど救われたか・・・。
私が遺伝カウンセリングの実習を受けた時、遺伝カウンセラーは面談中ほとんど話さず、たまに患者さんに声をかけるだけ。それに、就職先でも、先輩遺伝カウンセラーの役割といえば、医師が話している横で記録をまとめることでした。
上司の医師には「遺伝カウンセラーは国家資格じゃないから、病院では患者さんからお金がとれないんだよ」と言われたこともありました。
たくさん話せばいいってもんじゃないですが、さすがに、
「遺伝カウンセラーって遺伝カウンセリングする人じゃないの?じゃぁ、なんで遺伝カウンセラーって名前をつけたの?この仕事内容だったら遺伝コーディネーターとか遺伝専門士とかにしてくれた方がよかった。だまされた!」
と思うことも多々ありました。
今は遺伝カウンセリングのノウハウがない病院で勤めていますので、担当医と相談しながら、遺伝カウンセリングを主体的に担当できるようになりました。
その分、良いプレッシャーが生まれ、以前よりも自分の仕事に誇りや責任をもって取り組めるようになったと思います。
まさに、この方のように「遺伝カウンセラーになってよかった」と思えるようになりました。
「遺伝カウンセラーが持つ知識、価値を行動で示す」のことの大切さを改めて胸に刻む機会となりました。
参考リンク
1、アメリカの遺伝カウンセリング制度委員会
2、Audray Heimler先生の論文ダウンロード先
Audrey Heimler, An Oral Histroy of the National Society of Genetic Counselors, Journal of Genetic Counseling, Vol.6, No.3, 1997
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/epdf/10.1023/A%3A1025680306348
蛇足ですが、動画の翻訳って思ったより大変・・・(^^;)続きの動画もがんばります!
読んでいただきありがとうございました。
井令 咲絵(いれさき)